偶然と必然(8)









 水平線がぼんやりかすんで見える。水の色は、暗い。甲板からのりだしてみても魚影すら見えない。
 セレスティアの海はインフェリアとは違う。世界が本来の姿に戻ったとはいえ、もともと二つの世界は別々の存在だ。ずいぶん慣れたものの、インフェリア育ちのキールにとってこの暗い海はあまり気持ちのいいものではなかった。空なら、いい。けれど引きずり込まれるような錯覚すら覚えるこの海の暗さはどうにかならないものか。
 改良が加えられてそれほど揺れない小型船。酔いとまではいかなくてもあまり気分が優れなくて、キールは甲板で風に吹きさらされていた。そろそろ夏に差し掛かる。だから、あまり寒くはない。
「お〜い、キール」
 のんびりと名前を呼ばれ、彼は風に踊る前髪を押さえながら振り返った。
「そろそろ三分の一ってところか。船旅ってのはどうにものんびりしてるよなあ」
 おまえの声もな、と言ってやると薄青の髪の青年は気を悪くしたふうもなく笑った。次第にその笑顔が人の悪いものに変わってゆくのに気づいて、キールが身構える。
「それで、キールさんは時間を有効に使えたのかな?」
「……ああ」
 肩を落とす。どうしてこう皆が皆自分たちのことばかりをダシにして遊ぶのだろう。悪気がないことはわかっている。わかっているのだが、別の人間でもいいはずなものを。
 キールは自分たちの反応が他の人間よりも数段おおげさで面白い(ここが大きなポイントだ)ことに、まったく気づいていなかった。……気づいていれば、とっくの昔に対処していただろう、おそらく――なんらかのかたちで。
 面白そうに顔を覗き込もうとする友人を横目で見やる。
 ……礼くらい、言っとくかな。
 何はともあれ取り返しがつかなくなる前にメルディの抱えていた不安を知る機会ができたのは、彼のおかげだ。あのまま夜遅くに帰って、この船旅のことも詳しく話さずに出てきていたら、今ごろこんなに落ち着いた気持ちではいられなかっただろうから。
「感謝してる」
 短く述べられた礼の言葉に、青年は意表をつかれたように目を丸くした。意地っ張りのキールがこんなに素直に礼を言えるなんて――そんなに大きな変化があったのだろうか?
 とにかく彼の気遣いはいい方向に働いたらしい。なんとなく嬉しくなって、彼はキールと並んで遠くの水平線を眺めた。
 しばらく、静かな時間が流れる。
 と。
 いい気分で見渡す視界に、突如異物が映りこんだ。
 もくもくと柱のように海から天に向かって伸びる雲。だんだん近づいてくる。
「あれは……」
「マジかよ」
 二人は顔を見合わせると、同時に叫んだ。
「船長! 船長――!」










 暖かな部屋の中が、急に薄暗くなった。
「……あら。雨?」
 セレナが湯気の立つカップを持ったまま立ち上がり、窓に近づいて空を眺める。
「結構降ってる。……洗濯物先に入れといて良かったわね」
「そだな」
 メルディはうなずいて、ずずっとお茶をすすった。あまり食欲はないので、お菓子にはほとんど手をつけていない。胸は少しむかむかするが、精神的には安定しているのでそれほどつらくはなかった。
「ジードほっといていいか?」
「大丈夫よ。だいたいうちはそれほど繁盛してるわけじゃないしね。お医者さんは繁盛しないに越したことはないもの」
 そうじゃなくて。
 昼間メルディが洗面所に駆け込んでから、ほったらかしになっていた洗濯物の始末はすべてジードがやってくれた。今二人の診療所に入院している患者はいない。セレナが毎日メルディのために時間を割けるのもそのためだ。あまり出かける気にもなれず、キールもいない状態で、クィッキーだけを相手にして日々を過ごすのは少しきつい。だからおおいに助かっているのだが、ここまで一生懸命面倒を見てくれるとさすがに悪い気もしてくる。
 なのに、二人は文句ひとつ言わないのだ。
「……そうじゃなくてな。メルディばっかりかまってたら、ジードいじけちゃうよぅ?」
「ああ、そういう意味」
 セレナは笑って身を翻し、ソファに戻った。反動で同じソファに丸まってうとうといていたクィッキーの体が弾み、クィッキーは瞳をくりくり動かして食べかけのクッキーの最後のひとかけを飲み込んだ。
「いいのよ。ちゃんと埋め合わせはしてるわ」
 あっけらかんと言い放ち、皿に指を伸ばす。
「あなたの悪いところは人に気を使いすぎるところよ。みんな好きでやってるんだから、甘えとけばいいの」
「でも」
 メルディはうつむいた。
 みんな優しくて優しくて、ちょっとしたことですぐ涙が出てしまう。確か自分はこんなに簡単に人前で泣くことなどしなかったはず――できなかったはずだ。心が痛くてもそれをひたすら押し隠して笑顔を浮かべていれば、みんな自然に寄ってきた。一緒に笑ってくれた。
 そうやって、生きてきた。
 なのに。
「最近すぐ涙が出るよ……こんなんじゃ、好きになってもらえない」
 悲しそうにつぶやく彼女に、セレナは鼻を鳴らしてカップを置いた。
「あなたの笑った顔しか見ないで、他のことから目を逸らすようなヤツなんてうっちゃっとけばいいのよ。そりゃあ、笑った顔を見るほうが楽しいし、嬉しい。……でも、人間やってたら泣きたいときだってあるでしょう?」
 それとも信用できない?
 言われてメルディはあわてて首を振った。ぷるぷる、ぷるぷると髪が揺れる。セレナはため息をついた。
「もー。……うじうじ考え込むとお腹の中の子供に悪いわよ? ……さっさとキール帰ってこないもんかしら。思いっきり甘えれば何もかも吹き飛ぶでしょうに」
「……ん……でも、ちゃんと帰ってくるよ」
 メルディがかすかに微笑む。つられてセレナも微笑んだ。
「……そうね。なんだ、ちゃんとそう言えるなら心配はないわよね」
「うん」
 外は雨が降り薄暗かったが、部屋の中はカップから立ち昇る湯気と照明の光で、明るくなおかつぽかぽか暖かい雰囲気で包まれていた。












 空も海も暗い。波は激しく逆巻き、小型の船は大海に浮かんだ木の葉のように翻弄されつづけていた。
「おい、そっちの引き綱持ってくれ!」
「こ、これか?」
 横から飛んできた指示の声が誰のものなのか考える余裕もなく、目の前のロープをつかむ。縄目がぎり、と手に食い込んだ。痛みに歯を食いしばりながらも必死で指に力をこめつつ、キールは怒鳴った。
「これ、嵐なのか!? 今まで何回も往復したけど、こんなことなかったぞ!」
「冬は時々あるんだよ!」
 甲板に出てきて指示を飛ばしていた船長が怒鳴り返す。耳元で獣の唸り声のような音が絶え間なく響き、普通に話すのではとても声は届かなかった。
「冬……」
 そういえば、冬はいつもバンエルティアか、シルエシカの大型船がわざわざ迎えに来てくれた。おそらく、それらの船ならこの程度の嵐、どうということはないのだろう。
 今回のように小型の定期船を使うのは、春先から秋までに限られていた。
 すでに自分が酔っているのかどうかなんてわからない。酔う暇なんてない。激しい揺れに、船から投げ出されないようにするのが精一杯だ。叩きつける雨に手が濡れ、滑りそうになる。



 ひときわ高く船が持ち上げられたとき、かすかに何かが聞こえた。
 ――――――――――……――――……
(……何だ?)
 どこかで聞いたような声だとも思ったが、その主が誰なのかも思い出せないままに、キールの意識は闇に溶けた。












 昨日の雨が嘘のようにさわやかに晴れ渡った空。窓から外を眺めて、メルディは肩の上のクィッキーをなでながらぼんやりキールのことを考えていた。
 セレスティアには珍しいほどの晴天。今夜は綺麗に晴れ渡るだろう。一緒に星が見られれば、最高だったのに。
 窓を開けて外の空気を吸おうと鍵に手をかけたとき、玄関の呼び鈴が鳴った。
「はいな〜!」
 返事をして戸口に駆け寄る。薄緑の床に、二人ぶんの影が落ちた。
「……セレナ? 早いな。ジードも」
 確か、来てくれるのは昼過ぎだったはずなのだが。それに、二人ともやけに顔色が悪い。メルディは嫌な予感に胸がざわざわと騒ぎ出すのを感じた。
 夫婦はしばらく無言で視線を交わし、それからジードが重そうに口を開いた。果たして、漏れでる声も低い。
「……港に知らせがあった。定期船がまだティンシアに着いてないってんで、大騒ぎになってる」
「……え」
「昨日の雨、海の上では嵐だったんだ。ちょうどその頃定期船はそこらあたりを航行してたはずだって――それで」
 ぐらりと視界が揺れた。慌ててセレナが手を差し伸べる。ジードがまだ何か言っているのはわかったが、耳を素通りして内容など頭に入らない。
 だって、あの船にはキールが。
 景色がちかちかする。頭の中をものすごい勢いで何かが駆け抜けていく。




 ……走馬灯?




 ふと、そんな言葉が頭に浮かんだ。死ぬ前に思い出が心の中を駆け抜けるのだと、その様がまるで走馬灯のように次々浮かんでは消えるのだと、そう聞いたことがあった。



 じゃ、メルディは死ぬの?



 駆け抜ける、光景。
 ただ、がむしゃらに前を目指していたあの頃。
 リッドファラロエンアレンデレイスチャットフォッグアイラ――名前と顔がどんどん頭の中を埋め尽くしていく。



 違う、これは――記憶だ。



 ミイラのように干からびて豪奢な椅子に座らされていたバリル。
 穏やかな笑みを浮かべながら闇に飲み込まれていったシゼル。
 包んでくれる暖かい腕。自分を現実につなぎとめたもの。



 見つめる優しい蒼い瞳。恐ろしいはずの暗闇が安らぎにもなり得るのだと教えてくれた。



 大切な。
 大切な。



 黒いものが近づいてくる。
 自分を飲み込もうと、うごめきながら近づいてくる。




「……ひっ……い……やあああぁああぁ――――っ!!」





 メルディは、絶叫した。












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