求めること(3) カチリ。 静かに静かに鍵を開け、まず顔だけ中にいれてみる。 煌々と明かりが灯った室内には人の気配はない。キールは一瞬眉をひそめ、丸めていた背を伸ばしてから部屋の中に入った。 奥の部屋からかすかに声が聞こえる。扉の影からそっとうかがうと、口許に優しげな笑みを浮かべた横顔が見えた。ちょうど授乳の最中だったらしい。メルディは抱き上げた赤ん坊に何やら話しかけている。 キールはぼんやりとそのさまを眺めた。 わずかな光を透かして宝石のような光沢を放つ淡紫の髪。緩やかに波打つそれはふっくらした頬を縁取りながら一本の流れを作り、華奢な肩から零れ落ちて背中を覆う。着ているものは体型を出さないすとんとしたワンピースだが、七分袖からのぞく腕から指先までは、服の下に隠された肢体をも容易に想像させるほどにしなやかで優美な曲線を描いていた。 まるで一枚の完成された絵画を見ているような錯覚に襲われる。みつめているうちにどんどん不安がふくらんでくる。 彼女は以前、こんなに美しかっただろうか? 桜色の唇も、紫水晶の瞳も、彼にとっては見なれたもののはずだった。その唇は小鳥のさえずりのような声で彼の名を呼び、その瞳にはいつも彼の姿が映っていたはずだった。 それは今も変わらない。変わったなどとは思っていない。 けれど。 息苦しさを感じて、キールは思わず片手で服の胸元をにぎりしめた。チャリ、と合わせの金具が鳴る。その音に、メルディが弾かれたようにふりかえった。 「あ、あ……キール? おかえりな」 「……ただいま」 ぎこちない笑顔を契機に、止まっていた時間がなんとか動き始める。どう続けてよいのかわからずにキールは軽い苛立ちを覚えたが、思いなおしてそっと息をついた。昼間、そっけない台詞で追いたてられるようにメルディが帰った後、二人はまだ一言も言葉を交わしていないのだから。なまじ口を開けば皮肉の棘が際限なく出てくるだけのような気がして、何も言えない。 数瞬の沈黙を挟んでから彼女はキールの視線に気づき、さっと頬に朱を散らして服の胸元を直した。その場でただひとり、満足げに目を細めた赤子がけぷんと可愛らしく空気を吐き出す。 彼はメルディの腕から息子のちいさな身体を抱き取り、注意深く寝台に横たえてからまだ細くやわらかな前髪をくしゃりとかきあげた。 「……腹いっぱいになったのかな? 眠そうだ」 少しだけ雰囲気が和む。メルディがうなずいて、自分も手を伸ばした。 「ん。どんどんおおきくなるよ……」 指先がふれあう。反射的に逃げようとした細い指を、白い手が追いかけてすばやく捕まえた。 「っ、きー……」 メルディが驚いたように目を見開く。何か言おうと口を開きかけ、目をおどおどと宙に彷徨わせ――結局彼女は最後には、まっすぐに見つめてくる視線を正面から受けとめた。 ゆっくりとつかまれていないほうの手も添えて、指を絡ませる。 「キール」 微笑。 次の瞬間にはもう、身体は動いていた。 「んっ……」 ふわりと甘い香りが広がる。 吐息を通して鼻腔に抜けてゆく香り。それは記憶にあるものとは少し違うような気もしたけれど、今自分が抱きしめているのは間違いなくメルディだ。細くてちいさくて、やわらかくてしなやかで。その姿は硝子細工のような風情をしているくせに、触れるとひどく温かい。 突然の求愛に腕の中で抗議するように暴れるその動きさえも愛しくて、キールは無我夢中でやわらかな唇を貪った。 「ぃ、やっ……!」 隙間から洩れる言葉など当然無視する。彼女の必死の力さえキールにとってはそよ風程度のものでしかない。 ああ、けれどそろそろ息が苦しくなってきたか。 「いやあっ!!」 ふっと力を緩めた途端、胸元に衝撃が走った。 どん、と背中が硬いものに当たる。 「なんっ…………!?」 その硬いものは壁なのだ、と認識するよりも先に、彼はまず目の前で自分を見下ろす"妻"の表情に意識を奪われ、そして息を詰めた。 頬を真っ赤に染めて、そこまではいつもと同じだ。けれどかばうように両腕で自らの身体を抱きしめて立ち尽くす姿が、追い詰められ狩られることにおびえる小動物の姿を連想させた。涙を浮かべた大きな瞳。かすかに首を振り、小刻みに震えて後ずさるその表情が求めているものは"許し"。 改めて考えるまでもなかった。 拒絶。 何故なのかはわからない。わからない。しかし、今この瞬間、メルディが自分を受け入れることを拒んだのだという事実は彼の胸を凍りつかせるに充分なものだった。 無言で立ちあがる。 「あっ……」 今更ながらに自分が示した態度に気づいたのか、メルディがちいさく声をあげる。そんな彼女を完全に無視して、キールは大またで歩き出した。 「ま、まって! 待ってなキール!」 一瞬の沈黙の後、かすれた声が追いすがってくるのがわかったが、無論振り返る気などない。彼は階段脇の客室のドアを開けて隙間から身を滑り込ませると、間髪入れずに内側から鍵をかけた。 ばたばたと近づいてくる足音。ついでどん、という重い音とともに扉が揺れる。 「開けて、開けてよキール! あけて!」 音はなおも続く。それに混じって何か声も聞こえる。 「キール、開けて! ……………………あけて……あけ……て、よぅ……」 開けて欲しい、と言っているのか? あんなに必死な声音で。 キールは寝台に突っ伏して、外からの懇願を耳に捉えながら唇の端を吊り上げた。 嫌だというから、離れてやったまでだ。自分に触れられるのが、泣くほど嫌なことなのだと態度で示したからこそ、『離れてやった』のだ。せっかく望みをかなえてやったのだ、おとなしく感謝して一人でいればいいものを。 疲れたのだろうか、扉を叩く音がやみ、声に嗚咽が混じり始めたのがわかったが、彼の心を溶かすには到底至らなかった。 ただ、泣き落としになんか乗るもんか、そう思っただけだった。 ぼんやりと視界がかすんでいる。壁を淡く照らす紫色の光に寒々しいものを感じて、メルディはぶるんとひとつ大きく身震いをした。 寒い。ふと頬の涙をぬぐった指先が冷たくて驚く。暦はもうとっくに春だというのに、冷たい壁と床に熱を奪われて彼女の身体は冷えきっていた。傍らにはクィッキーが寄り添うようにして眠っているが、その程度では到底暖を取れるはずもない。 メルディはぐしんと鼻を鳴らして立ちあがった。目が覚めたのは、甲高い赤ん坊の泣き声が聞こえたせいだ。それは今も高く低く、尾を引いて続いている。 行かなければならない。愛情と義務感の両方につき動かされるようにして、彼女はよろめきながらもシフィルの部屋に向かった。緩慢に、けれど規則的に動く自分の足にくっと唇を歪めて嘲笑を浮かべる。ひきずるようにしか動けないほど重く感じる身体には、もうどこにも力など残っていないと思いこんでいたのに。 ずるずると扉の隙間をくぐりちいさな身体を抱き上げると、泣き声はぴたりとやんだ。濡れた青い瞳がしげしげと自分を見上げ――そうして納得したのか、先ほどまでの騒がしさが嘘のように部屋に静けさが満ちる。そのあまりの変わり身の早さに思わず笑みがこぼれた。 すやすやと腕の中で眠る赤ん坊はひどく温かい。体温が高いためなのだろう、キールのもつ優しいぬくもりとは少し違ったが、それでも今はありがたかった。毎夜彼の腕の中に包まれて眠ることに慣れていた身には、突然の独り寝はつらすぎる。 たったさっき、信じられないとでも言いたげに自分を見上げてきた彼の双眸。次の瞬間その中に閃いた傷ついたような光が脳裏を離れない。 知っていたはずなのに。自分は、身を以って知っていたはずなのに。好意を寄せる相手に拒絶されることがどれほどつらいことか。そうしてつくられた傷がどれほど深いものなのか。それはどれほどの愛情を受けようとも決して完全に癒すことはできない。自分がまさにそうなのだから。 わかっていたはずなのに。 それなのに。 頬を伝う涙は速度を増してぼたぼたと赤子の産着に不規則な染みを残してゆく。 次の日の朝食の時間は、彼女にとってはまさしく針のむしろだった。 なにしろキールがまったく口をきかない。否、開きはするのだが必要最低限のこと以外はまったくしゃべろうとしない。ただもくもくと食べるだけで目も合わせてくれないのだ。 いつもの食事であれば当然出てくるはずの、日常のことや研究の愚痴もなし。当然ながら、それらの内容に応じてくるくると変わる彼の顔つきも、静かなままで変化など見られない。 「……ごちそうさま」 いっそのことシフィルが泣き出してでもくれれば、とちらりと視線を彼の部屋に投げたとき、いかにも気のなさそうな挨拶が聞こえた。 「あ、あはい、どーいたしましてな」 キールは無言で立ち上がり、椅子の背にかけてあった外套を羽織った。そのまま入り口まで進みかけ、振り返る。 「あ、そうだメルディ」 「は、はいな?」 かけられた声には棘はなかった。そのいかにもあっけらかんとした様子に、メルディは少しばかりの希望を感じて勢い良く顔をあげたが、戻ってきたのは期待に反してまったくの無表情だった。 「今日はたぶん遅くなる。もしかしたら泊まりこみになるかもしれないし、先に休んでていいからな。鍵は持っていくから」 「…………うん。いってらっしゃい……」 「……いってきます」 ぱたん、と玄関の扉が閉じてキールの姿が見えなくなる。 その音を合図に、押しこめていた涙が一気に溢れ出して視界を覆った。 止まらない。後から後から、限界など知らぬかのようにとめどなく頬をぬらしてゆく。 「クキュ……」 遠慮していたのか、今まで物音ひとつたてなかったクィッキーが走りよってきて、いつのまにか座り込んでいたメルディの手の甲をちろちろと舐めた。メルディはすばやくそのちいさな体をだきあげて、ふかふかの毛並みに顔をうずめた。 「……なあ、クィッキー? キールな、昨日からいっかいも笑ってくれないの……」 クキュ、と相槌が返ってくる。毛皮が濡れるのは嫌だろうに、逃げ出そうともせずおとなしく抱かれてくれる相棒に感謝しながら、メルディは耐えきれずに嗚咽を洩らした。 笑うどころか近づこうともしない。向けられるのは感情を伴わない無機質な視線だけ。起き抜けに額に降ってくる羽のような口づけも、頬を染める自分をからかうように小突く指先の感触も、今朝は得られていないまま。 「もう、……もう、キラワレちゃったかなあ? っう、キール、メルディが、こと、キライになっちゃったかなぁ? もう、キラ、いに……ッ!」 確かな絆を手に入れたと思った。あの腕の中に閉じ込められて、甘い言葉を聞いて、ずっとずっと幸せに満たされて過ごした。そうしてシフィルが、自分たちを結び付けているものを目に見える形で示す存在が生まれた。 幸せな家庭を築こうと、失ったものをこれからすべての時間をかけて一緒に取り戻していこうと、約束したのに。あのときのキールの照れくさそうな笑顔を、今でもはっきり思い出すことができるのに。 謝っても、果たして許してくれるだろうか。それほど自分が彼に与えた傷は深い。『びっくりした』ではすまされないのだと、ともすればこのまま絆ははかなく消えてしまいかねないのではと、恐怖はどこまでも深く暗くこころを追い詰める。 メルディは長い長い間、声を殺して泣きつづけた。 |