求めること(4) 予告通り、その日のキールの帰宅は深夜になってからのことだった。結局何もやる気が起きなかったメルディは、最低限の家事と息子の世話だけをすませてあとは一日中ぼうっと居間のソファにもたれかかっており――自分で鍵を開けて入ってきたキールとちょうど鉢合わせの形になった。 「わ?」 明かりをつけるまで彼女の存在に気づけなかったキールが、驚いて立ち止まる。まだ起きていたのかと半ば呆れ顔で近づいてきた彼を、メルディはぼんやりと見上げた。 「……キール。おかえりな……」 虚ろな声と表情に、キールが柳眉をひそめる。 「……おまえ……先に休んでていいって言っただろう? 疲れてるならなおさらだ」 ぼくもすぐ寝るからな、と昨夜と同じく客室に向かいかけた彼を、震え声が引きとめた。 「………………さきに寝てたほうが、よかった?」 振り返る。 「? いや、別にそういうわけじゃな」 「さきにねてたほうがよかった? メルディがかおなんて、みたくなかった? みたくなかった?」 「そうは言ってないだろ!」 畳み掛けるような物言いに、キールは声を荒げてテーブルに拳を叩きつけた。びくりとメルディが身をすくませる。その瞳に走ったおびえの色が一層彼をいらだたせ、キールは彼女の視線から逃れるようにあらぬ方向に顔をそむけて吐き捨てた。 「そうは言ってない! ただ、ちょっとの間距離を置いたほうがいいかと思ったんだ……近くにいたらぼくはおまえにいったい何をするかわからない。無理強いだってしてしまうかもしれない……!」 メルディが身ごもってから今日までの一年近くの間、彼は指一本彼女に触れようとはしなかった。それはただでさえ不安定な彼女をさらに混乱させることを避けるためで――恋人などではなくむしろ肉親のような気持ちに成り代わって見守ってきたつもりだった。 健康な女でさえ命を落とすことも珍しくない、出産という大仕事をその華奢な身体で無事終えたメルディ。間違いなく体力は衰えているはずなのだ。これ以上無理はさせたくないのだと、その労をねぎらいたいのだと、真実そう思っているのにそれでも激情は止まってくれなかった。歯止めをかけてくれるはずの理性も、彼女に対して持っていたと思っていた思いやりも、なんの役にもたたなかった。 結局これは自分勝手な欲望なのだ。 それを敏感に察したからこそ、メルディは本能的に拒絶することを選んだのだ。 ……だから。 「……だから、しばらくぼくはおまえに近づくつもりはない。……おまえだって、そのほうがいいだろう?」 再び彼女の前に男の顔をさらす機会を図りながら日々をすごしていかなければならないのかと思うと、気は滅入ってくるけれど。永遠に失うことさえ避けられれば、時間さえかければきっといつかまた、もとのような関係に戻れる。きっと。 メルディは茫洋とした目つきでキールを見上げ、首をかしげた。一気に言葉がたたきつけられたから、まだ整理ができていない。順を追って少しずつ、自分の中で意味を持つ単語に変換していく。 その、過程で。 『ぼくはおまえに近づくつもりはない。おまえだって、そのほうがいいだろう?』 ひくりとのどが鳴った。思考は声にはならず、ただ頭の中だけを嵐のように駆け巡り始める。風にまきこまれて、意識は深淵へと落ちこんでゆく。 近づくつもりはないのか。 「……誰がか?」 ぽつりと問うと、キールは蒼い瞳にとびきり不機嫌な色を浮かべて自分を一瞥した。 胸にさくりと音をたててナイフが刺さったような感覚に襲われたが、同時に「ああ、やっぱり綺麗だな」なんて思ってしまうのは。 何故だろう。 『ぼくはおまえに近づくつもりはない』 そう、わざわざ聞きなおすまでもなかった。 誰と誰なんてわかりきっていること。ここには自分たち二人しかいないのだから。 近くにきてくれないの? もう、キールはメルディが近くにきてくれないの? 声も出せずに、ただゆっくりと首を振るしかできない彼女に先ほどの言葉がさらに追い討ちをかける。 『おまえもそのほうがいいだろう?』 ……メルディ、も? ううん、そんなことない。メルディは違うよ。 あ。 でも。 ……キール、は? 「………………そっか……」 メルディは誰にともなくつぶやいた。 「そっか。キールは、メルディが、そばに、いたくないんだな?」 「なん……」 聞き取り損ね、キールが怪訝そうな顔をするのにも気づかなかった。 だって彼は言ったのだ。はっきりと。 "お互いが距離を取りたいと願うのならば、その通りにすることが一番いいのだ" と。 メルディのそばにはいたくないと、言ったのだ。 胸に鋭い痛みが走り、彼女はたまらず両手で自分自身を抱きしめた。 (メルディはキールが近くにいたい) 近くにいたい。ずっとそばで、一緒に笑っていたい。 いや、近くにいるだけでは満足できない。決して抜け出せないように腕の中に閉じ込められて、耳元で低く甘く響くささやき声を聞いて、ふわりと落ちてくる口づけを受け止めて。 細められる紺碧の瞳には自分が映っていなければ嫌だ。彼が一番大切に思うのは自分でなければ嫌だ。 今までいったいどれだけの優しさをもらっただろう? どれほど愛され、労わられてきたことだろう? 花は光を浴びて天を目指すことを知る。けれど自分は駄目だった。どれほどの愛情を注がれようともこの空虚は埋まらない。いつまでもこの暗い場所にとどまったまま。飢えた心はもっともっと愛情が欲しいと泣き叫ぶ。 それなのに、そばにいることさえできなくなってしまったら。 自分は。 「きーるは、めるでぃがこと、きらいに、なったんだな?」 確認するように一語一語区切って尋ねる。返事は聞こえないけれど、予測はつく。 そうだ。きっとそうだ。 自分があんまり欲張りになったから、もっともっとと欲しがるだけでキールには何もしてあげないから、だから彼は呆れてしまったのだ。呆れてしまって、もうつきあっていられないと思ったのだ、きっと。 もう愛情を注ぐどころか近くにいることすら嫌になってしまったのだ。 だから。 あたま……いたい…… ぼんやりと、メルディは思った。 何か硬いものが何度も何度も頭に打ちつけられているような気がする。それでいてふわふわと頼りなく揺れる視界はだんだん色を失って暗くなってきている。 だけど涙だけは止まらなくて、濡れた頬に当たる空気がやけに冷たくて、それだけが鮮烈にこころに焼きつく。 ぐらりと身体がかしいだのがわかったが、たてなおす力は彼女には残っていなかった。 「メルディ!」 目の前で突然倒れ伏したメルディに、キールは血相を変えて駆け寄った。後頭部に手を回して抱き起こす。ぐにゃりと嫌なやわらかさが手に伝わってきて、彼は顔をしかめた。見下ろすメルディには、まるで人形のように生気がない。 腕の中の身体は急速に冷たくなっていく。原因もわからず、ただただ必死に抱きしめたとき、キールは耳元で当然聞こえるはずの音がしないことに気づいた。 息遣いが、聞こえない。 「なん……!?」 あの優しかったラシュアンでの日々の、最後にひとつだけ残る残酷な記憶がよみがえって、彼はさっと青ざめた。これは生命活動が衰えていく生き物がまとう特有の空気。 「……メルディ! 呼吸だ! 呼吸、息!!」 耳元で叫んでいるというのに聞き取るのがやっとらしい。メルディはかすかにまぶたを持ち上げて気だるそうにキールを見上げた。 「……い……き……?」 そうか。 苦しいのは自分が呼吸をしていないからだ。彼女はようやくそのことを自覚して、けれど内心首をかしげた。 そういえば、息ってどうやってするものだった? 覚えてない、そんなの。身体は眠りを欲している。何も考えず眠りたいのだと、そのためには呼吸など邪魔なだけなのだと頭のどこかで言い聞かせる声がする。もう何もかもどうだっていい。 だって、キールに嫌われてしまった。 ようやく得られたと思った幸せは、あっけなくこの手の中から滑り落ちて消えてしまった。 だから、いい。息なんて別にできなくたって問題ない。 このまま消えてしまえたほうが、きっと楽なのだ。 熱いものが流れ込んできたのは、そう思ったまさに次の瞬間のことだった。 |