求めること(5) 何度も何度も、角度を変えて口づける。 唇を深く深く重ねて、逃げようとする舌を追いかけて絡ませる。 いくら言っても呼吸どころかその努力さえしようとしないメルディに業を煮やして、キールはとうとう人工呼吸に踏み切ったのだった。 ただし、呼気を送るだけなら深く口づける必要などない。途中から、彼は先日拒絶されたばかりだということも忘れてただ夢中で吐息を吹きこんだ。 「……んっ、ふ……」 隙間から甘いうめきが洩れる。それに気づいて、キールはメルディの呼吸をつかもうと一度唇を離した。銀色の糸が明かりを反射して輝く。 「……ケフッ! ゲホ、コホコホ……は、はぁっ……!」 「メルディ!」 彼は一声叫び、未だ息を荒げて肩を上下させるメルディを力いっぱい抱きしめた。抱きしめてから、おそるおそる顔を覗き込む。紫水晶の瞳は呆然と見開かれていた。いったい自分の身に何が起こったのか把握しきれていないらしい。 「……きーる……?」 か細い声が耳を打つ。その中におびえも不信も、なんら含まれていないことを確信して、キールは改めて心置きなく愛しい相手を抱き寄せた。 「よかっ……! よかった、メルディ……っ!」 涙声でよかったよかったと繰り返され、メルディは抱かれたまま首だけ動かしてぼんやりと辺りを見まわした。しばし考え込む。 「……えっと……?」 向けられる視線に説明を求められているのだと解釈して、キールは息をついて華奢な身体にまわした腕を緩めた。 「ぼくにもよくわからない、けど……おまえさっきまで息してなかったんだ。顔は青いし、どんどん冷たくなっていくし、……死んじまうかと思った……!」 そこで感極まったのか、また締めつけが強くなる。多少苦しげに息を継ぎながら、メルディはさも不思議そうに目をしばたたかせた。 「……きーる、泣いてるか……?」 「泣いてない」 思いのほか強い調子で否定の言葉が返ってきてたじろぐ。 「でも」 「泣いてないったら泣いてない!」 キールは子供のように首を振ってわめいた。 確かに彼女の顔はキールの手によって彼自身の胸におしつけられたままだから、表情は見えないのだけれど。けれど、言葉とは裏腹に小刻みに震える腕が、ひゅうひゅうと唇から洩れる息が、彼の心理状態を如実に表している。 「……キールは、うそつきだなあ――……」 目じりが熱くなってくるのを自覚しながらも、メルディは口元に笑みを浮かべてキールにしがみついた。 「くだらないやきもちだったんだ」 ふわふわと頭をなでる手つきのやさしさに、メルディが幸せそうに目を細める。その額に唇を寄せてキールは続けた。 「ぼく以外の奴と、あんなに幸せそうな顔で話すメルディを初めて見たから……昔は、メルディのああいう顔は全部ぼくだけのものだったのにって思ったら、頭がかーっとなって」 甚だ自分勝手な感情だ。それはわかっている。過去、メルディは誰にも本当の意味で心を開くことはなく、それゆえに彼女の本音を知ることのできるものもほんの少数だった。キールはメルディにとって、喜びや楽しみだけでなく、怒りや哀しみといった負の感情を見せたとしても絶対に大丈夫だという信頼感を初めて与えてくれた人間なのだ。だからこそ、彼女はガレノスやクィッキーなど、"家族"を除いてはキールに対してしか本当の顔を見せることはなかった。 それが、少しずつ変化を見せてきたのはいつ頃からだったろう。 誰に対しても本当の顔を見せられるということは、こころが満たされているという証拠だ。キールはそのことは理解していたし、またそれが自分によってもたらされた変化だということも誰に指摘されるまでもなく知っていた。これは自惚れなどではないと胸を張って言うことができる。 だから、嬉しいのだ。嬉しいはずなのだ。 それなのに、嫉妬はその嬉しさをも押し流してすべてを覆い尽くしてしまった。挙句に気持ちを押し付けて拒絶される始末。情けなさと苛立ちがあいまって、気遣いを忘れた結果がこれだ。 「……悪かったよ……」 ぎゅっと抱き込まれてメルディは微笑んだ。 キールはとっても頭がいいくせに、こういうことに関しては本当に疎い。けれど疎いからこそなのだろうか、自分がどれだけ彼を好きなのかも知らないで、ただまっすぐに、ひたむきに想いをぶつけてくる。 「……キールしか知らないメルディがカオは、まだまだたーくさんあるな」 ぽんぽんとキールの背中を叩きながら、彼女は歌うように言った。 「キモチの数だけカオはある。メルディが"スキ〜"って思ったときのカオはきっとキールしかみたことないよ?」 「そうかな」 「そうよ」 たとえば抱きしめられているとき。たとえば口づけを交わしているとき。この上ない幸福感に包まれているあの瞬間だけは、ほかの誰にも作り出すことはできない。 現に、今も――…… うっとりと目を閉じてぬくもりに身を任せていると、額からまぶたにかけてやわらかな感触がすべった。頬を染めて見上げる。 「………………今。今すぐに、見たい顔がある」 「え」 言葉とともに吹き込まれた吐息がひどく熱い。その意図を悟って、メルディは瞬時に耳まで花の色に染め上げてうつむいた。 「嫌か?」 低い声に少しだけ、切なげな響きが混じった。おそらく昨夜手ひどく拒絶してしまったことを気にしているのだろう。そう思い至り、メルディは慌てて首を振った。 「やじゃないよ! やじゃない…………っ、でも、」 「うん?」 ふわりと頬をなでた手のひらは冷たくて、すでに火照ってしまっている顔に心地よい。優しく細められた蒼い瞳をこれ以上直視できなくなって、声も出せずにただキールの胸に顔をうずめる。 「……あの、でも、シフは……」 「戸は開けてあるだろう? あいつの泣き声ならすぐに気づくさ」 「でも、でもあの……」 「おまえが動けなかったらぼくが動く。それでいいだろう?」 なおも言い募るメルディをさえぎり、彼は弾みをつけて細い肢体を抱き上げた。今朝とは打って変わって機嫌の良くなったキールに、メルディはぷっと頬を膨らませてみせてから、それから思いきり抱きついた。 扉の隙間から細く光が指しこんでいる。 暗闇に慣れぬ目で、キールは感覚だけを頼りに寝台まで歩き、妻の身体を横たえた。空気の動きで腕が差し伸べられたことを知り、つぶしてしまわないように細心の注意を払いながら覆い被さる。その途端にちいさな手のひらが頬を挟みこみ、強く引き寄せられた。 ぶつかりあうやわらかなもの。 「んっ……?」 キールは驚いて目を見開いたが、口内に流れ込んできた熱い吐息に気を取られてすぐにまぶたを閉じた。 しばらくただ抱き合ったまま、キスに没頭する。息継ぎの余裕などない、離れても唇はすぐにまた重なる。 「っふ、は……ぁ」 苦しげにもがくメルディに気づいて、キールは夢中で貪っていた唇をなんとかもぎ離して荒い息をついた。 「っは……くる、しかったか?」 彼女がふるふると首を振る。 「……な、キール……メルディたち、キスするの、ひさしぶり、よ」 「……そうだったかな」 「そうよ」 ふと遠くを見るような目つきになった彼に、メルディはむきになって言い返した。 そう、ひさしぶりだ。たしか最後に口づけを交わしたのは――今と昨夜をのぞけば――シフィルが生まれた直後のことだったはず。出産という大仕事を無事に終えたメルディに、キールが喜びのままに落としたそのひとつだけ。 それから彼はあまりメルディに触れなくなった。はじめはあまり気にしていなかったが、彼女が以前と同じ生活ができるほどに回復してからもそれは変わらなかった。なんの前触れもなく抱かれることに慣れきっていたメルディは少しの安堵感とともに寂しさも覚えたものだ。 激情はいずれ穏やかな流れへと変わる。いつまでも激しいままの気持ちを保つことはきっと大きなエネルギーを必要とするから、だからキールは第一子の誕生とともにおそらくこころを静めることを選んだのだろうと。これからもずっと一緒にいてくれるためにそうしたのだろうと。それならそれでいいと思っていたのだ。一抹の寂しさとともに、そう納得したのだ。 けれど、彼の心は未だ熱いままだった。その熱さにおののきながらも、打ち震えて狂喜する自分がいる。そうして―― 「……っ?」 唐突に肌が冷たさを感じて、メルディはぴくりと身体を弾ませてまぶたを開いた。 「……なに……?」 「あ、すまない……」 銀色の光が目を射る。どうやらキールの服の金具が肌の上に落ちたらしい。そこまで認識して彼女は慌てて手で胸元と腹部をかばった。 「あ……っ」 頬に血が昇って行くのが自分でもわかる。考え事に沈んでいた間に服はすっかりはがされ、一糸纏わぬ姿で彼の前に横たわっていたのだ。膝を抱えるようにして必死で身体を丸めると、キールは不満そうに鼻を鳴らしてメルディの腕をつかんだ。 「メルディ」 「みないでっ!」 涙混じりの声をあげて身をよじる。 「メル……」 やはり嫌なのではないかとキールは眉根を寄せたが、彼が何か言うよりもメルディのほうが早かった。 「おなかっ、でっぱってるからっ! 見ちゃいやぁっ!」 しばしの沈黙。 「……………………………………………………は?」 思わず力が抜ける。すかさずキールの手から腕を抜き取り、メルディは腹部を隠すように抱きこんでおそるおそる彼を見上げた。そこにはぽかんと口を開けて自分を見下ろすキールの姿。 「…………なんだって?」 たっぷり十数えた後ようやく立ち直ったのか、間の抜けた問いが降ってくる。 「だから。おなか。……でっぱってるから、見ちゃいやだよぅ」 キールは震えながら自分をみつめるメルディの全身をざっと眺めて首をかしげた。 「……腹? 出てるか?」 「でてる……」 確かに以前より少しふっくらしたかとは思う。思うけれど、華奢な骨格はあいかわらずだし、手足もやはりちいさくて細いまま。涙目でいるところを見ると、どうやら本気で気にしているらしい。 しかし、彼にしてみればどこがどう違うのやらさっぱりわからない。 わからない、が。 もしかして。 「……もしかしてそれで昨日も……?」 探るような口調にメルディがびくりとする。笑いがこみあげてきて、キールは思わず口許を押さえて肩を震わせた。 なんだ。抱かれることそのものが嫌だというわけではなかったのだ。むしろ彼女の反応を考えるに、このことで自分に嫌われることを恐れてもいたらしい。 なんともはや。 「は、ははははっ!」 「なっ、なあんで笑うかあっ!」 メルディが真っ赤になってつかみかかってくる。その気持ちはわからないでもないが、笑うしかないではないか。キールは余裕しゃくしゃくの表情でその腕を捕まえ、あっという間に組み敷いた。 「……………………あ」 メルディは途方にくれたようなつぶやきを洩らして口をつぐんだ。目の前には大好きなひとの笑顔。何度目だろう、この―――― 少しばかり意地悪そうな光をたたえた碧玉の瞳と。 赤く潤んで涙をいっぱいにたたえた紫水晶の瞳と。 合わせ鏡の終わりは見えない。 |